About us 私達の教団
1949年6月、ファーガスフォールスで開かれた第49回ルーテル同胞教団年会において、モーリス・ワーダル牧師(写真左)は、日本の東北地方への宣教師の一番手として召されました。これがルーテル同胞日本宣教団の誕生です。
モーリス・ワーダル師は同じ年の8月に横浜に着き、1ヶ月後には、第一段階の日本宣教を開始すべく酒田に到着しました。
最初の10年(1949〜1958年)は、宣教団の働き人の急成長期でした。アメリカにおけるルーテル同胞教会の若者達は、日本への福音の門戸が開かれたことによってチャレンジを与えられました。ある人々はそんなに若くはありませんでした。共産主義者が中国政権を手中にするまで中国で宣教師として奉仕していたナイフス家は、日本で働きを始めるのを助けるようにという神の導きを感じました。ナイフス家は、モーリス・ワーダル師のちょうど1年後に日本へ到着しました。しかし彼らは1年後台湾に渡りました。台湾の中国人達の間で労するためでした。1951年までにルーテル同胞宣教団は、家族と2人の独身宣教師で合計14名。1955年までには働き人は19人に増えました。最初の10年の終わりの宣教師の数は13人まで減少しました。しかし、この初期の間に宣教団は、日本の1つの田園地帯への到達を願うかなり大きな組織になっていたのです。
10年間に働きの範囲も広がりました。酒田は宣教開始の地ですが、東に北に、そして南へと海岸沿いに広がって行きました。宣教団は、他の福音的なグループ、例えばEMAJやLutheran Unityと公式多岐に包含させられることを避けて来たのですが、交わりの基礎は保持しました。この交わりのレベルにおいて、他の福音的なグループとの関係においては宣教の礼譲が進み、そこではそれぞれ宣教団が他の団体の伝道のための領域を認めあったのです。1953年まで、日本ルーテル同胞宣教団は、北は弘前・青森から南は鶴岡・山形までと宣教地を考えました。しかし1953年までには宣教団は、鶴岡の働きに支障を来すことなく弘前にまで働きを広めることが出来ないことが明らかになりました。3つの考えで私たちは大館が私たちの伝道の領域の北限であると思うようになりました。
①弘前に住居を見つけることが困難であった
②その時点で可能な働き人の数が限られていた
③私たちは既に鶴岡での働きを開始していたのですがそこにはまだ一人も働き人がいなかった
以上のことが、60年代の終わりまでの日本ルーテル同胞宣教団の宣教区を決めたわけです。