イエスの受難による救い
「十字架のことばは、滅びに至る人々には愚かであっても、
救いを受ける私たちには、神の力です。」
受難週とは、イエスさまが十字架につけられるまで受けられた苦難の数日間をさしております。
さて、イエス・キリストが十字架にはりつけにされたということは、多くの方がご存じのところ
でしょう。
しかしながら、そのことが自分と関係があるということについては、あまりご存じないようで
す。それは、とても残念なことです。
イエス・キリストというお方が十字架の上で死なれたのは、今のこの自分のため、私のためでも
あったということをお認めになられる方は、確かに救われます。そして、その人の人生は確かに
新しくなります。イエス・キリストによって与えられる救いは、その人を生れ変らせる救いです。
私のような、罪人のかしらのような人間をも、こうして、人生を尊く、感謝のうちに、人々に
仕える者として生きれるようにしてくださいました。
私は、時々思わされることがあります。たくさんの人が、今のままではいけないと思い、なんと
かしたい…と考え、悩んでいらっしゃる-そして救いを求めていらっしゃる。
変革や改革を求めていらっしゃるにもかかわらず-どうして、なかなかそうできないで悲しんで
いらっしゃるのだろうか。
…本当に考えさせられてなりません。
本当に救いを求めてはいないのではないか。
甘えているのではないか…と、つい思ってしまうことがあります。
これは意地悪い、思いやりのない考え方でしょうか。
私は、そうは思えないのです。
これは、体の不調や病気を訴えながら、医者に行こうとしないのに似ているのではないでしょ
うか。もし、イエスさまのところに来るならば、そのうつろな心、むなしい、淋しい心、悪意や
罪にさいなまれている心が、新しく生まれ変るほどのすばらしい救いが与えられるのに、…本当
に残念でなりません。
イエス・キリストが十字架の上につけられ、さばかれたのは、私たちを不幸にしている私たち自
身の罪のためなのです。
私たちの罪のために身代りになって、さばかれて、死んでくださいました。
私たちが、このイエス・キリストを信じるとき、私たちも、古い人がさばかれて死ぬことになる
のです。そして、イエスさまがよみがえられたように、私たちも新しい神の子供の命に生きる者と
されるのです。
本当に新しい人間に生れ変りたいと願っていらっしゃる方はいませんでしょうか。